2017年11月7日火曜日

やさしさ

「やさしさ」ってなんだろうと、ときに思う。

私は「意地悪だ」といわれるよりは「やさしい」といわれることの方が多いが、
それは私が「やさしい」からだというわけではないと思っている。

たぶん(自分のことは意外とわからないものだ)、(私は打たれ弱いので、)
人にやさしくしてもらうために、
人に対してもやさしい「ふるまい」をしているだけなんだと思っている。

「情けは人のためならず」という言葉が好きだ。
これを、情けをすることは人のためにならないからするべきでない、
と勘違いしている人がいるけれども、
本来は、情けをすることは回り回って自分に返ってくることなのだから、
人のためにするものではなくて、自分のためにすることなんだよ、という意味だ。

たぶん私はそれを「やさしさ」に対しても実践している。

こう書くと、
お前はなんて打算的な人間なんだ、
そんな「やさしさ」なら、してもらわなくてもいい、
という人が必ず出てくる。

でもそうだろうか。
「やさしさ」が打算的な考えからきているのか、
心からの本来の「やさしさ」からきているのか、
どうやったらわかるのだろう。

私は上で、自分の「やさしさ」は打算的なものなのかもしれないということを書いた。
でも本当にそれが打算的なものなのか、私にも誰にもわからない。
逆に、自分の「やさしさ」は心からのものだと信じている人がいるとしても、
実はそれは打算的なものなのかもしれない。

表面的な「やさしさ」から、
それが本来のものなのか打算的なものなのかはわからないのだ。

もちろん、詐欺を働くために「やさしく」接してくる人はいるだろう。
それも確かに打算的なものであることはいうまでもないが、
私がここで述べているのは、そういう次元の話ではない。

「やさしさ」の目的が「やさしさ」であることと、
「やさしさ」の目的が「詐欺」であることとは
まったく違うことだ。

結局言いたいことはこういうことだ。

たとえ打算的なものであれ、
一生その「やさしさ」を貫けるのならば、
それはその人が「やさしい」ということなのではないだろうか。
もしそうであれば、
その人の「やさしさ」を素直に受け止めてもいいのではないか。

「やさしさ」は形から入ってもいいと思うのだ。