「やさしさ」ってなんだろうと、ときに思う。
私は「意地悪だ」といわれるよりは「やさしい」といわれることの方が多いが、
それは私が「やさしい」からだというわけではないと思っている。
たぶん(自分のことは意外とわからないものだ)、(私は打たれ弱いので、)
人にやさしくしてもらうために、
人に対してもやさしい「ふるまい」をしているだけなんだと思っている。
「情けは人のためならず」という言葉が好きだ。
これを、情けをすることは人のためにならないからするべきでない、
と勘違いしている人がいるけれども、
本来は、情けをすることは回り回って自分に返ってくることなのだから、
人のためにするものではなくて、自分のためにすることなんだよ、という意味だ。
たぶん私はそれを「やさしさ」に対しても実践している。
こう書くと、
お前はなんて打算的な人間なんだ、
そんな「やさしさ」なら、してもらわなくてもいい、
という人が必ず出てくる。
でもそうだろうか。
「やさしさ」が打算的な考えからきているのか、
心からの本来の「やさしさ」からきているのか、
どうやったらわかるのだろう。
私は上で、自分の「やさしさ」は打算的なものなのかもしれないということを書いた。
でも本当にそれが打算的なものなのか、私にも誰にもわからない。
逆に、自分の「やさしさ」は心からのものだと信じている人がいるとしても、
実はそれは打算的なものなのかもしれない。
表面的な「やさしさ」から、
それが本来のものなのか打算的なものなのかはわからないのだ。
もちろん、詐欺を働くために「やさしく」接してくる人はいるだろう。
それも確かに打算的なものであることはいうまでもないが、
私がここで述べているのは、そういう次元の話ではない。
「やさしさ」の目的が「やさしさ」であることと、
「やさしさ」の目的が「詐欺」であることとは
まったく違うことだ。
結局言いたいことはこういうことだ。
たとえ打算的なものであれ、
一生その「やさしさ」を貫けるのならば、
それはその人が「やさしい」ということなのではないだろうか。
もしそうであれば、
その人の「やさしさ」を素直に受け止めてもいいのではないか。
「やさしさ」は形から入ってもいいと思うのだ。